日本の小学校も経費の問題で制限されている。当然あれもこれも新しいものに換えるというわけにはいかない。しかし、日本の小学校は最新の校舎であれ、また歴史ある古い校舎であれ、一つの共通点がある。それは・・・清潔で、きれい!ということだ。
何年か前に、台湾で開業した弁護士の友人と出版社経営のもう一人の友人が、私の日本の住まいを訪ねたことがある。
彼らは世界の様々な場所を仕事や旅行で行ったり来たりしているので、もちろん日本もその時初めてというわけではなかった。ということで、彼らは私に一般の観光客が行くようないわゆる観光ルートを案内するよう頼むのではなく、代わりにこんなことを言い出したのだ。
「日常的な日本が見たいです。」
当時私は日本の千葉県、距離で言うと東京から電車でおよそ35分の場所、地理的には台北付近のベッドタウンのようなところであろうか、とにかく「日常的な日本」と言ってよい場所に住んでいた。
そこで私はこういう提案をした。
「そういうことなら、家の付近を散策でもしましょう!」
観察力の鋭い友人たちは、少し歩いただけで、日本の住宅街の相違点に気付いた。
例えば車道脇の歩道である。確かに歩道自体狭いことには狭いが、車道との間にいわゆる「段差」がないのである。そして必ず緩やかな傾斜がついており、このために日本のお母さんたちのベビーカーであれ、年配のおばあちゃんたちが押す買い物用カートであれ、何の問題もなく、大体高さで言うと10センチほどの傾斜を行き来できるのである。一つまた一つと、作り手側もいささかも面倒だとか煩わしいとは思わずに、歩道をずっと先まで伸ばしており、歩行者の権益を十分に尊重した造りとなっている。
もう一つの例は、道端のゴミ箱である。ゴミ箱には必ず蓋がついており、それだけでなく、蓋の上にはねじもついている(蓋を閉めてひねるとペットボトルの飲み口のように開がなくなる)。それによって、蓋をきつく閉めることもでき、もし犬なり猫なりが間違って倒してしまった場合でも、ゴミが地面に散らばるということはないのである。
以上に挙げた例は本当に小さな点ではあるが、これらはすべて、日本人の細かいところにも絶対に手を抜かない、いいかげんにすませない気質や生活態度をよく表している例である。
その時はちょうど土曜日の午後、2時半頃だったと思うが、我々3人は散策しているうちに私の子どもが通っている小学校にたどり着いた。黄土色の運動場で、体操服を着た小学生たちが、追いかけっこをしながらじゃれあっている。顔は赤く火照り、汗だくで、本当に楽しそうだ。
運動場のもう一方で、ニワトリやウサギを抱きかかえている子供たちの姿が見えた。慎重にそっと鉄のかごの中に入れようとしている。私は友人たちに説明した。
「あれはおそらく『動物愛護週間』の当番が回ってきた生徒でしょう。」
スペースが限られているという点で、日本と台湾の生活環境にほとんど変わりはない。一般家庭でペットを飼えるだけの広い家に住めているという人はほとんどいないだろう。しかしだからといって、ペットを飼いたいという気持ちや飼育からくる楽しさというのを子どもたちから奪いたくない、そして子どもたちに動物愛護の精神や飼育に伴う責任感をはぐくませたい、これも親心というものであろう。
というわけで日本の小学校では、これらの状況の間をとるべく、ある方法でこの問題を解決している。それは普段学校で飼っている「ミニ動物園」のウサギやらニワトリやらカメなどおなじみの動物たちを、休みの期間生徒たちが交代で家に持ち帰り、週末世話をするという取り決めなのだ。
日本の小学校の教室は大半が円柱型になっており、これはおそらくどの教室にも日が当たるようにとの狙いで設計されたものであろう。
二つの教室内では、宿題のチェックや添削であろうか、頭を垂れて一生懸命に採点している大人がいる。きっと教師の一人であろう。
もう二つの教室では、子どもたちとおしゃべりをしている大人がいる。学級担任であろう。
小学校の校内にふいに大きな男3人衆が出現したせいであろうか、目立ってしまったようだ。運動場の一角で、白い仕事着を着ながら草取りをしていた掃除のおじさん二人が、頭を上げてこちらを見た。お互いに少しうなずくように自然とぺこりと頭を下げ、挨拶を交わしたつもりだった。掃除のおじさん二人はまた下を向き黙々と草取りに励んでいる。
運動場に沿って一周すると、台湾の終戦初期、台湾の小学校には必ずあった「消防用器材倉庫」を見かけた。その四角い倉庫にはこのように書いてある。
「火の用心」
そしてもちろんのこと、木でできたフロアの室内体育館も目に飛び込んできた。友人たちは興味津々で、「こんなぴかぴかのフローリングなのに、生徒たちが靴を履いていたら、床がすぐ傷んでしまうんではないですか。」
実際のところ、日本の小さな旅館に泊まったことのある人なら、ほとんどの人が経験があるはずだ。たとえどんなに小さくても、またどんなに古くて、どんなに田舎の小さな旅館でも、そしてどれだけ歴史がある年代物の旅館であったとしても、どこもとても清潔で窓がきれいに拭かれて透き通っており、机はぴかぴかに掃除され、塵一つないといった清潔感なのだ。布団カバーも、ほとんどが皺のないアイロン済みの白いカバーである。
ここまで清潔にできるのは、日本の小学校教育、家庭教育と、至るところ、あらゆる過程で家事をこなす訓練が施されていることと関係があると言ってよいのではないだろうか。
日本の小学校では、どの生徒も体育館に入る前に、必ず「体育館用上履き」というものに履き替えなければいけない。このため、体育館の床がすぐ傷んでしまうという心配もないし、またほこりや塵も減らせる。
床板を傷めないためのさらなる方策として、日本の小学校では、体育館で使う机や椅子には、必ず脚の部分4箇所に、半分に切り取られた、既に使われていない古いテニスボールがくくりつけられており、保護用マットの働きをしているのである。これも床板を傷つけてしまわないための一つの策というわけだ。
当然のことながら、これらすべては子供たちが全部自分たちで行なっていることであり、床のワックスがけもその一つで、皆で一斉にやるのだ。なぜかというと、体育館というものは、もし仮に地震などの天災に見舞われた時には、さっと布団を敷くだけですぐに最適の避難所となるからだ。
921の台湾大地震(1999年)の際に、体育館の冷え切った床の上で寝るしかなかった台湾の避難民のことを想っても、日本との違いをまざまざと感じることができる。
日本の小学校も経費の問題で制限されている。当然あれもこれも新しいものに換えるというわけにはいかない。しかし、日本の小学校は最新の校舎であれ、また歴史ある古い校舎であれ、一つの共通点がある。それは・・・
清潔で、きれい!ということだ。
息子は小学3年の時に台湾に戻り、台湾の学校に転入することとなった。
放課後のクラブ活動として空手を習っていた息子の様子を見に出かけると、私は毎回解せない気持ちになったものである。台湾での一等地、台北市中心の学校であるにも関わらず、どうしてこんなにも汚くてぼろいのだろうか?
でこぼこの手入れが足りないコンクリート地面、手入れがなってない荒れた花壇、手入れが足りない汚い教室の床・・・どこもかしこも傷んで壊れている光景なのだ。
経費が足りないというのは分かる。しかしなぜこんな無残な状態になるまで放っておいたのか。ほとんどの部分は生徒たちがちょっと手を動かして、補修したり、洗ったりすれば元のきれいな状態に戻る場所であるのは明白なのに、そのまま放っておくから汚くておんぼろの状態も当然そのまま放置されているのだ。
空手道場といっても、安全な木製の床板ではないし、ただコンクリート地面のホールに過ぎないから、マットを敷くしかないのだが、それも汚くて不潔なマットばかりだ。
子どもが幼い頃から教育を受ける場所が、こうも不衛生で乱雑な環境であるのに、どうして学校を卒業した後の彼らに、清潔で整然とした社会を作っていくことを期待できるだろうか。
友人が子ども三人を、同じ小学校に通わせているということもあり、道理でこんなにも日本の小学校の環境や清潔さに驚いたわけである。これらはすべて日本の小学校の生活教育の一環なのだ。
生徒たちがワックスがけで使う、または普段窓を拭いたりする時に使う雑巾だが、これは実は学校側が生徒のお母さんたちに、タオル生地を使って、白い雑巾を手作りで縫ってもらうようお願いしているものなのだ。さらに雑巾の上には子どもの名前も刺繍する。
家内はもともと裁縫はできず、当初は苦闘していたのだが、子どもが日本の小学校に入学して以来、色々な雑巾や小さな手提げ鞄づくり、名前の刺繍ができるようになり、最終的にはちょっとした花模様を刺繍するぐらいお茶の子さいさいという所まで成長したのだ。
小学校には、雑巾は買ってはいけないという決まりがあるため、家で使用した白い古くなったタオルを用いて、「Do It Yourself-自分でやる」のだ。
雑巾の寸法や作り方に関しても、詳細な図表付の説明書きが用意されており、子どもたちはそれを持って家に帰り、「二週間後に学校に持っていくものだから、お母さん、お願いね!」
と言うのである。
ミシンを使えないお母さんたちは、両手を使って一針、また一針と縫っていき、こうして母親の愛情は「母のにおいがする」雑巾へと化け、小学校生活に付き添うものとなるのである。
台湾の詩にある「慈母の手の糸、遊子の身の服*」とまではいかないが、しかし「時は金なり」の現代社会にあって、小さな一枚の雑巾、弁当箱の手提袋は母と子の心を確かに繋いでいると言えるのではないだろうか。
* 慈母手中線,遊子身上衣。
臨行密密縫,意恐遲遲歸。
誰言寸草心,報得三春輝。
(遊子吟~唐朝詩人 孟郊)
慈母 手中の線
遊子 身上の衣
行に臨んで密密に縫う
意に恐る遅遅として帰らんことを
誰か言う 寸草の心
三春の暉に報い得んと
金銭で購入できる物、それは母手作りの物を大事に思う感覚には到底及ばない。
息子はとっくに大人になり、当時の弁当袋もとうに不用なものとなった。しかし今でも、弁当袋の刺繍された名前を見る度に、当時小学生だった子どもが、身長の半分ほどもあろうかというランドセルを背負い、母お手製の弁当袋を左右に揺らしながら、楽しそうに登校している姿が、頭の中には懐かしく想い出されるのである。
明治維新の後、日本人は「強国は強健な身体から」ということを悟るに至り、積極的に学童らの身体鍛錬を推し進めた。
子どもが通っていた小学校では、朝教室に入るや否や、まずは運動服と短パンに着替え、運動靴を履き、紅白帽をかぶり、早速一時間目から体育の授業があった。
黄金色の陽が運動場に降り注ぐ中、至るところで運動を楽しんでいる小学生の姿。それはここ台湾の小学生たち、朝早くから教室に「閉じ込められ」、「朝自習」をしている子どもたちと比べて、まさに「天国と地獄」の差である。
息子が通っていた小学校では更なる決まりがあって、卒業までに、オリンピックの標準的な体操種目をワンセット覚えなければならないのであった。
そういうわけで、一年の四季折々の活動が巡る中、たとえ真冬の運動であったとしても、子供たちが着ているのはすべて体操服と短パンなのだ。真冬の寒風が頬を赤く染め、太ももを真っ赤にしてはいるが、すでに乾布摩擦が習慣となっている子どもたちにとって、一体寒いというのはどういうことなのか分からないのだろうか。
今に至っても、子どもは冬でもシャツ一枚しか着ない。寒いだろうからとジャケットを着させようとしても、暑いからと嫌がるのだ。道理でスポーツの様々な世界大会で、日本選手は生まれつき体が大きい西洋人の中に囲まれていても、引けをとらないわけだ。
我々三人一行はその後、小学校付近の通りに戻り、ぐるっと散歩してから家路に就いた。家に着くと、ちょうど家内が小学校のPTAから帰ってきたところだった。二人の友人は興奮しながらこう言った。
「私たちも今学校に行って来た所なんですよ!」
妻が聞く。
「じゃあ、校長先生とあいさつはされましたか?」
友人たちは解せない感じで、「校長先生ですか? いやお会いしませんでしたよ。何人かの先生が教室内で宿題の添削をしているのを見ただけですね。」
と言った。
妻は家の奥に入りながら、ぶつぶつと独り言を言っている。
「おかしいわね・・。校長先生と教務主任は午後ずっと運動場で、私たちも挨拶をしたのに。なぜ会わなかったのかしら?」草取りをしていて、私たちも挨拶をしたのに。なぜ会わなかったのかしら?」