Ch17 忘れ難し「京都の紅葉季」

たとえあなたが全く日本語ができなくてもここで一日を過ごしさえすれば、日本語の中の「美」に関連した称賛の言葉は一日で習得してしまうことだろう。
京福線列車はさっそうと動き始め、嵐山駅から急いで遠ざかっていく。車両内で立っている私は、依然として後ろを振り返り、じっと佇む君をただ見つめていた。私の脳裏に少しでも君を焼きつけたいと願いながら。

たとえ、一目だけだったとしても、私は同じように満足することだろう。
京都の西北、電車でわずか一時間足らずの嵐山嵯峨に住む君は、毎回一週間足らずしか会えない私をいつも笑顔で迎えてくれる。

君は約束を必ず守る、義理を重んじる娘だ。春、夏、秋、冬いつでも、友人が遠くからやってくると分かれば、君はいつでもその一番美しい姿で、笑顔と共に迎えてくれる。


春の桜、夏のホタル、秋のもみじ、冬の雪、ピンク、エメラルドグリーン、黄金色、純白、これらは確かに君のお化粧をする順番と色調だけれど、君のお化粧具合は、一度として同じものはなかった。

君はトロントのような北アメリカ地域の秋、延々と数百キロも続く中に、あるのはわずかに黄色と赤だけ、そんな秋とは全然異なっている。古いお寺も君の艶やかさに彩りを添えている。

君はいつも澄んだ渓流を鏡にしながら、青空を化粧の下地に、白い雲でおしろいを塗る。その他の赤い花々や緑の草木は、君の当時の気持ちに幾重にも変化をつけている。

たとえただのピンク色でも、君のピンクには赤もあれば、赤の中にさらに鮮やかな赤、鮮やかな赤の中には無数の赤紫やえんじ色といったものも含まれている。共通している中に、無数に折り重なった変化があり、無数の変化の中にわずかな共通がある。本当に偲ばれる。

私は君の心を永遠にとらえることはできないだろう、それは私が君のお化粧具合を永遠に当てられないのと同じだ。だけど君はいつもいとも簡単に私の心をとらえてしまって離さない。

君との再会では「旅行日程、計画、予定」なんていう言葉もあまり意味を成さない。なぜなら君はいつも何とかして私の旅行計画をむちゃくちゃにして、滞在を延ばそう延ばそうとするから。

計画通りにいかないことや、遅れるということが大変少ない私だが、いつも君と会うだけで、事前にどれだけ日本のガイドブックを読み込み、何度も地図や近道を記憶にとどめたとしても、君の姿を見るだけで、そういった綿密な計画はたちまち無駄になってしまう。なぜかって、君の美しい姿一つ一つ、何度も何度も振り返ってはたたずんでいると、気付かぬうちに時間が過ぎ去って、時間がいくらあっても足りないからだ。

今年の春、君は満開の桜をもって私にそっとおしろいを塗ってくれ、夏はさわやかなエメラルドグリーンに澄み切った渓水で私を洗い流してくれた。


だけど今年の秋は、まるで早めに到着した私を迎えるかのように、君はわざわざその前から秋服に着替えてくれていた。滞在を数日も延ばせない私が、君の多様な風情を見つくせないことを恐れているかのように。

今年の君は、紫と赤をまとい、それらが競い合うかのようにシンクロして演出をしており、あまりの多さ、あまりの彩りに目をきょろきょろさせ、目がくらむばかりで、圧倒されてしまった。私は本能的にシャッターを押すことしかできず、君の眉をひそめる姿、微笑む姿、すべてをとらえたかった。とらえきれないそのほかのものは仕方なく、神様にゆだねることにした。

やっと君と再会できた私は、もう次が待ちきれないとばかりに、すでに心の中では君の小指をしっかりと握って、指きりげんまんをしていた。また次の季節の再会を約束しながら。

その時の君は、今度はどんなお化粧姿で私を魅了してくれるのだろう。


樹木が青々と茂った山、澄み切った水、白い雲、赤い花々、黄色のもみじ、伝統ある古いお寺、叙景詩のような、そして童話の中に出てくるような美しい景色、これらが見られる場所は京都に私の知っている限りに少なくとも2つある。ひとつは宇治川河畔平等院一帯で、もう一つは、嵐山の嵯峨野一帯である。

嵯峨野は京都の西北に位置しており、車や電車で1時間もないところである。嵯峨野方面には多くのバスや電車が走っている。

もし観光ピーク時で、京都の旅館に予約するのが難しいということであれば、大阪に泊まるのもまた悪くない別の選択肢である。

大阪から阪急線で河原町方面への電車に乗り、「桂」駅で嵐山方面に乗り換え、終点で下りる。電車に乗っている時間は一時間足らずだ。もし京都に泊まるのであれば、駅からバスに乗って、または「四条大宮」駅から、直接電車に乗って、嵐山方面へと向かえば大丈夫である。


ただこの路線に関して、筆者は個人的にはあまり好きではない。人が多くて、「恋人」とこっそり密会するには適さない。私はどちらかというと京福電鉄の一両列車に乗る方が好きである。

京福から嵐山線へのこの路線は、人がもっともまばらで、私はいつも6時11分の始発に乗る。一車両で、一人の運転手、2~3名の観光客ということで、7時前には京福嵐山嵯峨駅につく。客がまばらな明け方の時間を利用して、ぶらぶらと散歩を始める。この時、朝日が東の山頂から徐々に昇り始め、渡月橋一帯の山麓に光が斜めに差し込み、山全体の色とりどりな景色をさらに立体的に映し出すのだ。


嵐山嵯峨一帯がどれほど美しいかを形容してほしいと言われても、大変申し訳ないが私にはそのような能力がない。ただこれだけは言える。たとえあなたが全く日本語ができなくても、ここで一日を過ごしさえすれば、日本語の中の「美」に関連した称賛の言葉は一日で習得してしまうことだろう。なぜならそばにいる日本の観光客が、一句また一句とおのずと口に出してくれるからである。

「ああ、本当にきれいだ!」
「いやあ、驚くべき美しさだね!」
「うわあ、素晴らしい!」
「ええ、目を見張るような景色だね!」
ここに、たまにいる欧米人の「Oh, My God!」を付け加えれば、あ、い、う、え、おのすべてが揃ったことになる。日本の観光ガイドのお姉さんが言う。
「お客様をここに連れてくると、どんな解説をしても意味がないんですよ。ここでの美しい景色に深く魅了され、皆さん驚嘆の念から思いにふけってしまうんです。」


写真撮影好きの人から言わせると、ここはネガフィルムの「ブラックホール」なのだ。
周囲の様々なカメラから、ひっきりなしにフィルムを巻き取る音が聞こえてくる。もちろん、この音こそ10数キロの撮影機材を背負ってきた疲れを最も癒してくれるのだが。
春に来た時は、靴擦れで両足合わせて6つもまめができてしまった痛い教訓があるので、それだけは避けたいという思いから、私はここに到着する前に、最新の「La New」のクッション靴を履き、準備は万端だった。
紅葉は山の中にあるので、石階段を下りる時の重力加速度により、負担はさらに増すのだ。よって、足にフィットした靴を準備しておくことをお薦めする。

早めに航空チケットや旅館をおさえておくことに関してはもっと大事である。
雨量が十分あり、秋の手前に陽光が照り渡る日が何日か続き、その後急に温度が下がる、これらが一度に揃うだけでもみじが最も好む気象条件になるのだ。
多種多様な色が同時に演出を始める、この時こそ紅葉狩りの絶好の機会だ。
もし運よく、ちょうど粉雪が降っていて、紅葉がその雪の上に舞い降りる姿を見られたとしたら、その赤白のコントラストは、更に美しい。
もちろん、「高雄」とも呼ばれる神護寺も絶対に見逃してはならない。あそこでは更なる絶景が見られる。