Ch4 警察大学校学長の自殺

もし私たちが、自分は「人間」であり、そして皆「人権」があるということを認識しているのなら、より大事なこととして「人格」があるということをも認識する必要がある。

この本の冒頭、第一章の中で「日本の小学校での一日」について触れたが、その中で、日本の小学校の校長と教務主任が土曜日の午後でも運動場で草取りをしていたという話を取り上げた。

実のところ、こういった光景は日本ではよく見かける。大多数の小学校の校長は大変まじめであり、別に何か小学校を経営してよい実績を残すことによって、後に中学校、高校、大学の校長とキャリアを伸ばすのに好都合だからとかそういう理由でしているのではない。純粋に良い仕事をしたいという動機で、職務に熱心に携わっているのである。

これから、私が日本に留学したその年に、私の脳裏に深く印象に残っている一人の校長を皆さんに紹介したい。ただ彼は小学校の校長というわけではなく、警察大学校の校長である。


1982年の11月、私の十数年に及ぶ日本滞在生活が始まってから間もない頃のことである。当時日本はすでに高度経済成長期であったが、私はある日ニュースで、すでに退職していた日本の警察大学校校長、杉原正さんが、神奈川県の川崎市自宅の裏庭で首吊り自殺をして亡くなっており、遺書が一通残されていたという報道を目にした。

杉原校長の遺書の中には、彼の自殺が、決して人生がつまらなくなったためとか、病魔に冒されていたとかではなく、その年に起きた、大阪府警の警察官が集団でゲーム機賭博の汚職事件に関わったためであるということが記されていた。(日本版の「周人蔘」事件である<台湾で、金銭や高麗人蔘など高価なものを警察に賄賂として贈ったゲーム機賭博の警察官汚職事件>)

これらの集団汚職事件に関わった警察官たちはすべて、杉原校長が警察大学校で勤務していた時代の生徒であり、杉原校長は自分の教育指導がなっていなかったためこのような警察官を生み出したと深く恥じており、責任と良心の呵責を感じ、死を以って国民にお詫びするとして、自ら命を絶ったのである。


日本の警察にも勿論いい加減で、どうしようもない奴はいる。しかし割合として、その数は極めて少ないはずだ。そういうわけで、一度警察内での汚職事件が明るみにでると、世間は大騒ぎになるというわけだ。

自己への要求、理想を高く持つことが、周囲からの尊敬を集める。そして周囲からの尊敬が一層高邁な理想へとつながっていく。これこそ日本の警察が国民から尊敬を勝ち得ている理由といっても過言ではないだろう。

日本の住民たちはまたは子どもであっても、自転車に乗っている警察官を見ると、こちらから進んで挨拶をする。また「おまわりさん」などという親しみのある言葉でも呼ばれている。


1987年8月、日本の大蔵省(台湾の財政部に当たる)国税局の公務員が、大蔵省のビル屋上から飛び降り自殺をした。その時期を前後に、およそ3~5件ほどの自殺や過労死という不幸な事件が相次いで起きていた。

日本の東大や、京大などの一流国立大学を卒業した者の多くは、卒業後の就職第一志望として、待遇が非常に優遇されている金融業や、証券業、外資系企業などを選ぶのではなく、むしろ公務員となって一生国家のために働くことを希望する。大蔵省というのは志望ランク3位までには入っている。

これらの飛び降り自殺をした公務員の方々は、決して何か不祥事が明るみに出たからとか、昇進の望みが絶たれたとかそういう理由で自殺をしたのではない。そうではなく高度経済成長期がもたらした圧倒されるほどの仕事量に耐え切れなかったのである。

当時霞ヶ関などの日本の主要政府機関のビル近くを通ると、夜9時半を過ぎていても、まだ照明が煌々と灯っていたりしていた。ほとんどは、公務員の方々が残業をしていたためである。

残業、残業、また残業。山積している公務をこなすため、来る日も来る日も、昼夜の別なく、眠りや休みを控えての残業。これこそ、天然資源を持たない国家の国民が、ひたすら懸命に努力して初めて勝てるということを悟り、国力を維持するには全力で臨むしかないということを明らかにする道理となっているのだ。
これはまた、なぜ多くの日本人が、松下幸之助先生のように、日本の大蔵省等の国家機関に入っていく際、その玄関に向かって、深々と礼をしてから入っていく一つの原因といってもいいだろう。

深々としたお辞儀、それは死んでも任務を達成する、まじめな精神の持ち主の一流公務員への感謝の意の表れで、同時に、この無形な「国家の品格」に対する敬意の表明でもある。


私は決して、「死を以って謝罪する」式の自殺を勧めているわけではないし、それに反対しているわけでもない。これは各自が下す選択なのだ。

第二次世界大戦が終局してから間もない頃、台湾嘉義県のある学校が、校外学習の一環として海へと旅行に出かけた。突然の荒れ狂った波が、水遊びをしていた学生数名を巻き込んだのだ。その学校の校長は自主退職し、頭を丸めて出家し、生涯亡くなった学生たちのために精進に励み、死者の平静と許しを祈り求めたという。これもまた別の責任の取り方と言えるのではないだろうか。

新聞で報道された台湾の白暁燕事件の凶悪犯、陳進興だが、彼は逮捕される前、出入りに使っていた車はすべてBMWやらベンツなどの高級セダンであった。もし日本ならば、一般庶民がそういった高級セダンであれロレックスの宝石腕時計であれ、納税記録と支出状況が明らかに符合しない場合、すぐに資金源に関しての説明を求められる通知が税務署から来ることは避けられぬことであろう。

もし車のオーナーが、これは「贈り物だ」と口実を述べたとしても、ではその贈り主とは誰なのか、引き続き追跡調査が行なわれるだろうし、ひたすら調査を進めていくことで、陳進興の納税記録からすると、これは到底支払えないはずの高級車であることが分かるはずだ。

普通の一公務員が、給料からして明らかにふさわしくないロレックスの腕時計をしていた場合、周囲の人はその人と付き合おうとせず、距離を保とうとするだろう。そしてこれはまさに汚職者への「社会的防御線」なのである。

自分の給料を善用し、法外な給料や余分な贅沢品を望まず、慎んで職務に携わり、注意深く自分の仕事の持ち場を守ること、これこそ、大部分の日本人の実際の姿である。

当然ながら、台湾のある電信業者のように、倒産して何百億もの負債を抱え込んでおきながら、ほんのわずかの間刑務所に入っただけで出獄し、以前のようにふかひれだのうまい酒だの贅沢な暮らしをしていても、世間は見て見ぬふりをし、検察官も自ら進んで調査に介入しないなんていうことは、日本ではまさか起こりえないだろう。

定年後の資金などをすべてだまされて奪われ、自殺にまで至った被害者やその家族のことを思えば、どうして引き続き大きい顔をしながら贅沢な暮らしができようか。これはもしかすると、ゆがんだ社会の価値観が生んだ、ゆがんだ社会現象と言えるのではないだろうか。

日本では、このように自ら自分を清め、律していく「自浄」という文化があるため、バブルがはじけて十数年経った、景気がますます悪くなっている今現在でも、日本社会の治安というものは依然として一定の水準を保っているのである。

このような日本の精神態度と文化こそ、まさに台湾の年長世代が一貫して日本統治時代を懐かしがっている主な理由であろう。

台湾の社会を顧みてみるとどうだろう。景気が低迷し始めてからまだ数年しか経ってないというのに、包丁を持ってたかだか数百元のためにコンビニエンス・ストアに強盗に入ったり、家族でぐるになって銀行を襲ったり、または歩行者の鞄の引ったくり事件、果ては、体の不自由な人が経営している宝くじ商店を襲うなど、枚挙にいとまがない。強奪事件など日常で、もはやニュースにもならなくなっている。

社会にはもっと多くの「死を以って詫びる」精神をもったプロまたは公務員が必要であると私は思う。罪を犯した後で、「皆お金で選挙の票を買っている」とか「皆お金を懐に入れている」などの言い訳をする者は全く必要としない。
もし私たちが、自分は「人間」であり、そして皆「人権」があるということを認識しているのなら、より大事なこととして「人格」があるということをも認識する必要がある。

もし私たちがプロの仕事人であるならば、「仕事を敬う精神」と「職業倫理」というものは絶対に持っていなければならないし、これらは、我々がある業種に就こうと選択する時に、いわば絶対に抱いていなければならぬ「最も基本的な認識」であるのだ。さもなければその職につくべきではない。

自分の職務に対して合わせる顔がないと感じる時、最も責任を取れる方法で責任を取るということ、この認識をすべての人が有していれば、社会には自然と「自浄能力」というものが備わっているだろうし、善悪のあいまいな基準、不正で逮捕されておきながら、なおも大きな顔して通りでデモ行進するなどのなんとも珍奇な社会現象を減らすことにもなるだろう。

ここに謹んで、今現在仕事の第一線での持ち場を堅持している仕事人の方々に対し、そして、未来であろうとまた過去であろうと、自ら命を絶つことにより、自分の仕事のふがいなさに対する責任をとった方々に対し、最高度の敬意を表したい。

Be the first to comment

Leave a Reply

Your email address will not be published.


*