
万矢が一斉に降ってくる時は腰を曲げるのだ。低ければ低いほど、曲げれば曲げるほどいい。
万矢がすべて頭上を通り過ぎ、風に流されるようにするのだ。決して矢が心臓を貫くことのないように。
1980年代、日本経済は栄えており、企業は卒業を控えた大学生の争奪戦を繰り広げていた。名門大学の卒業生ならば、2~3の企業が取り合いになるということもしょっちゅうあった。
私も当時日本の上智大学を卒業しようかというところで、社会学の吉田教授による大学最後の授業を受けていた。吉田教授は普段は皆座りたいところに自由に席を取らせるのだが、その日はうって変わって、卒業を控えた4年生皆、一番前の何列かの席に座らせたのだった。
吉田教授はまるで、これから戦地に赴く部下に対するかのように、最後の諭しをしたのだ。
「日本の一流企業に就職が決まり、おめでとう。君たちはトップ大学の卒業生で、資質や能力も一般の人よりすぐれている。だが大学を出て、会社で働き始めると、仕事の能力面では諸君よりもすぐれていない多くの人に出会うことだろう。しかも折悪しくそういう人が皆君たちの直属の上司なのだ。社会に出て働き始めれば、ミスや失敗をするということは避けられないし、当然上司から怒鳴られることもあるだろう。では君たちにこの言葉をしっかりと頭に叩き込んでもらいたい。
『怒鳴られた時、正しかろうが間違っていようが、絶対に言い訳はするな』。」
ここまで話を聞いて、自然と我ら留学生の心の中に、少々腑に落ちない気持ちが沸き起こった。
「正しかろうと間違っていようと、言い訳をしてはいけない?そしたら更に誤解を深めることにならないか? 公にミスを認めたということになってしまうではないか? 些細な給料でそこまで腰を低くする必要があるのだろうか?」
吉田教授は私たちがあまり合点のいかない様子に気付いてか、続けてこう言った。
「君たちは聞き間違えていませんよ。私が言ったのはこういうことです。
『上司から叱られた時、会社員である自分が正しかろうが間違っていようが、絶対に言い訳をしてはいけない。』
皆さんが怒鳴られた時は、気をつけの姿勢で立ち、頭を低く、低ければ低いほどいい、絶えずうなずき、はっきりとこう言うだけでいいんだ。
『はい、ご指摘ありがとうございます。』
『はい、申し訳ございません。二度と同じミスを繰り返さないようにします。』
『はい、大変申し訳ございません。以後気をつけます。』
日本の会社で勤務する場合、上司に怒鳴られるとか、上司にストレスを発散させるというのは、給料の一部分となっているところもあり、これは他の日本の学生たちには共通の認識であるだろうし、確かにわけもなく怒り血圧を上げている上司がいる。しかし留学生の中には、まだ教授の話をさえぎってでも質問する人がいる。
「自分が間違っていなくても、そこまでおとなしく従わなければいけないのですか?」
吉田教授は笑いながらこう答えた。
「君たち考えてごらん。もし本当に自分の間違いじゃないとしても、怒っている上司の前で、公然と弁解したら、たとえ元々は君たちのミスでなくても、最終的には、君らの「態度が悪い」というミスに変わってしまい、かえって事を荒立てるだけだよ。」
皆じっと吉田教授の話を聞いている。吉田先生は笑いながら続けてこうも言った。
「激怒している時の叱責というのは、「一度に発せられた一万ほどの矢」のようなものだ。何千何万という鋭い矢を迎え撃つ時、もし自分にミスは無かったとして、頭を上げ胸をはって弁明したところで、結果は見えている。一万の矢に心臓を射抜かれてしまうだけだ。」
吉田教授のユーモアのある描写で、学生たちは徐々に引き込まれていった。教授は続けてこうも述べた。
「君たち覚えておきたまえ。万矢が一斉に降ってくる時は腰を曲げるのだ。
低ければ低いほど、曲げれば曲げるほどいい、万矢がすべて頭上を通り過ぎ、風に流されるようにするのだ。決して矢が心臓を貫くことがあってはならない。相手の怒りが治まるのを見てから、初めて顔を上げるのだ。無傷で、きっと変わらず素敵な容姿のままだ!」
吉田教授の話と仕草がとてもすばらしく、クラス全員がどっと笑った。
考えてみてほしい。どこで働いていようが、はっきり言ってしまえば同じことではないだろうか。怒っている上司が一体どれだけ部下の言い訳を聞いていられるだろうか。
もし本当にあなたのミスでなくても、弁明した結果、上司のミスと証明して見せたところで、公然と上司の面子をつぶしたにすぎない。一体自分にとってどんなメリットがあるというのだろう?
ということで話を戻すと、明らかに自分のミスでないと分かっていても、気をつけの姿勢で腰をかがめ、頭を低くし、何度も謝り、はっきりと上司の指摘に感謝の言葉を述べ、以後気をつけ、二度と同じ過ちを繰り返さないと約束できる。内情を知っている同僚は、そのような光景が目に入るだけでなく、皆さんのその度量の広さに感服することだろう。後に、上司の怒りが治まってから、またはふさわしい時機を見つけて上司に、「実は、前回のあの件は・・・」
と説明するのだ。上司は事態を把握した後、心の中できっとこう思っていることだろう。
「この若僧たいしたもんだ!お門違いだったようだ。しかし怒鳴られても、こんな風に素直に受け止められるなんて、普通はベテランにしかない素養なんだが。お前は公然と面子をつぶさなかったし、論駁しようともしなかった。一つ借りができてしまったな。」
卒業を控えた学生たちにとって、仕事人生というのは長い。会社員にとってはもっと長いことだろう。上司は何かしら機会を見つけて、埋め合わせをしようとするもので、誤解されているのではないかと決して心配しないことだ。一生懸命仕事をしてさえいれば、時間がいずれすべてを証明してくれるのだ。
話は戻るが、もし本当にあなたの判断ミスだった場合に、屁理屈をこねて言い逃れしようとしても、後々必ず大変なことになる。たとえ沢山のことをこなしても、埋め合わせられるとは限らない。
それから長い年月が経った今、吉田教授はとっくに退職され、職場で叱られるサラリーマンだった私も、今では部下を怒鳴る、口うるさい上司へと変わった。
理詰めで議論を戦わせ、すべてのことに合理性を求めなければ気のすまない性格の私にとって、会社員時代にあまり怒鳴られなかったというのは幸運以外の何物でもないが、しかし日本企業で勤務していた時に同僚が怒鳴られている姿はよく目にした。面と向かって上司に怒鳴られている時、または電話越しに顧客からのクレームを聞いている時ですら、気をつけの姿勢で、頭を下げて、腰を屈め、ずっと大声で謝り続けているのだ。
「今後は十分気をつけますので、大変申し訳ありませんでした。」
こんな光景を目にするたび、心の中ではいつも不思議に思ったものだ。
「まさか、あなたも吉田教授の『最後の講義』を受けたのですか?」