
銀行員生活の一ヶ月目、こういった掃除、雑巾がけ、拭きなどの訓練を受けたのだ。
費用を支払うべきなのは、この益するところ甚大な新米銀行員」であって、私を雇用している銀行ではないのではないかといつも思っていた。
あなたは掃除ができますか?
あなたは机をふけますか?
私が日本に留学に行く前に、もし誰かが私にこんな質問をしたら、きっと何てばかな質問を、と思ったことだろう。
小学校生活が始まり、学校に着いてまずやることは掃除と机拭きである。もし日直だったら、さらに先生のお茶煎れと、掃除と、机拭きが待っている。一体誰ができないなんてことがあるだろうか。
1980年代に私が日本へ留学した時、高度経済成長期の賜物のおかげか、様々な業種の国際的ビジネスマンに対する需要がどんどん高まっており、元々、高度の信用を保つためにと外国人の雇用が非常に少なかった日本の銀行業ですら、外国人を正社員として雇い始めたのだ。
こういう縁もあって日本の銀行に勤め始めた私であったが、その時に初めて分かったことがある。それは「自分は掃除ばかりか、机拭きもできない。できないだけじゃなく、全くなってない。」ということだ。
日本の銀行で勤め始めてから、私はなぜ台湾の道や駅、ちょっとした路地など公共の場所が、ぼつんぼつんと黒いガムの跡があったり、タバコの吸殻、紙くずなどが落ちてたり、しまいには壁と壁の隅には黒いほこりがいつもたまっているのかが分かった。
一番不思議なのが、あろうことか我々は見慣れてしまっていてこれが普通と思ってしまっていること、そしてこんなに汚くて乱雑な状態で何も悪いところはないとすら思ってしまっていることである。
もちろん日本でも新宿などの特殊な地域では、同じように汚くて乱雑な場所というのもあることにはある。しかしそういった比率は明らかに少なく、日本に行ったことがある人なら、必ずや私と同感であろう。
しかし話は戻るが、日本の清潔さにはきちんとした「わけ」があるのだ。
「掃除」には学問があるだろうか。ほうきを持って掃けばいいのではないか?
「机拭き」には学問があるだろうか。雑巾を持って拭けばすむのではないか?
銀行業というのは日本のサービス業の中でもリーダー的存在であり、日本の銀行で働くことは社会人の、特に新人たちにとっては最大の夢である。
しかし皆さんは日本の銀行の「新人研修」とはどういうものだと思ってるだろうか。
実際のところそれは掃除など単なる「仕事の基本動作」に過ぎないのだ。例えば、お客様にお茶をどうやって出すかとか、どうやって机やテーブルを拭くか、掃除はどうするかなどである。
訓練を受ける前は私も、お茶汲みはお茶汲みだろう!と思っていた。まあせいぜいこぼさないように気をつけるとか、指が湯飲みの縁に触れないようにすればいいのではないかと思っていた。しかしこういった基本的注意事項に加えて、日本人には「基本中の基本注意事項」があるのだ。
「基本中の基本注意事項」とはすなわち、銀行員がお茶を出す時、湯飲みの「表側」をお客様に向けなければいけないというものだった。
私は当初「表側」という言葉を聞いた時、自分の日本語能力に問題があると思ってしまった。「表側」? 真ん丸な湯呑みのどこに「表側」があるというのだろう?
しかし確かに湯飲みには表があって、表がある以上、裏もあるのだ。
いわゆる「表側」というのは、湯飲みのきれいな花模様がついている面のことである。銀行は我々新人に、お茶を出す時、湯飲みの「表」をお客様に向けるようにと言っていたのだ。
お客様は大変忙しい中、わざわざ時間を取り分けてきてくださり、夏はうだるような炎天下の暑さの中を、冬は肌を刺す寒風の中をお越しくださったのである。湯飲みの表の小さな花模様をお客様の前にお出しすることで、少しでもお客様の労をねぎらい、気持ちをさわやかにすることができるのである。
私はまた思わず感服してしまった。
「なるほど!道理でこれが日本の銀行業なわけだ。これこそ日本のサービス業の真髄だ。」
お茶汲みの「基本中の基本注意事項」とはこれだけではない。お茶を出す時には、必ず茶盆を使い、加えて台ふきんもあわせて持っていかなければならないという規定があるのだ。そうすれば、仮にお茶を出す途中でうっかりこぼしてしまうということを防げる。
茶盆上のふきんに至っては、台湾人が好む、あの汚れが目立ちにくい、濃い色の布巾などではなく、白い、それも白雪姫のような純白なのだ。
そして、ふきんは茶盆の好きな位置に自由に置いていいというわけではない。
ふきん専用のさらに小さいふきん置きがあって、そこに置くことで、茶たくを汚したり、茶盆に水あかが付くということを防げる。
お茶汲みという一見単純な動作であっても、こんな風に丁寧に分かれているのだ。道理で日本製品は世界中に通用し販売されているわけだ。
興味深いと思わないだろうか? 私たちは、白は汚れやすいとして、汚れにくいとされる濃い色をよく使う。そういうことで、多くの台湾の新しい民宿では、提供される布団カバーが色とりどりの鮮やかな色ばかりである。
しかし日本人は違う。彼らは濃い色というのは汚れにくいのではなく、汚れや垢が目立たないだけと考える。よって白を好むのだ。少しでも汚れれば、すぐに分かるというわけだ。
じっくりと考えてみてはっと気付かされる。元々濃い色というのは、実は汚れにくいのではなくて、汚れを隠してしまい、目立たなくさせているだけなのだ。しかし汚れは汚れであって、色によって減ったりするものでは全くない。
というわけで日本の旅館は、三つ星、五つ星などの等級に関わらず、シーツや枕カバーはすべて白であり、それもアイロンがぱりっとかかった、全く皺のないものである。これにはきちんとわけがあったのだ。
台湾の旅行ガイド出版社の老舗「戸外生活雑誌社」は、民宿と旅館を幾つ星にするかを決める際の重要な指標の一つとして、「アイロンがピシッとかかった白のシーツと枕カバー」を挙げている。
私は写真を撮るのが好きなので、機会さえあれば日本に写真を撮りにいっている。しかし、どれだけ辺ぴで貧しい片田舎で、宿がどれだけエコノミーな価格設定でも、またどれほど老舗な場所で、建物が古びていたとしても、日本の宿はどこもとても清潔で窓がきれいに拭かれて透き通って、机はぴかぴかに掃除され、シーツも一目見ただけで交換したかどうかがすぐに分かってしまうのだ。
アイロンをかけたシーツというのは、人がその上に腰掛けてしまうだけで、もうぱりっとはしなくなる。客が、果たしてこれは清潔なのだろうかと心配したり、いぶかる必要がないので、このように自然と多くの客が出入りしているのだろう。
日本人は整理整頓を好む。この特質は日本人の机拭きの方法にも反映されている。
机を拭く際、非常に多くの人が、雑巾を片手に、何か汚れがあったら、それを見定めてから円を描くように、弧を描く運動をすることと思う。
机はそのように「拭かれた」後、元々あった小さな汚れは、何回かの弧を描く運動により決してきれいに拭取られたわけではなくて、実際は「臭いものにふたをした」というか、汚れを見えないように粉飾しただけで、均等に机の全面に分散されただけなのだ。もともと点のように小さかった汚れが、目では分かりにくい大きな薄い汚れになったのだ。
台湾にある屋台などで、すでに拭かれた、もしくはご丁寧にも「乾淨(きれいに拭いてあります)」と宣言されているテーブルの上に、安心して自分の手や肘を置いてそのままにしておく人というのはごく少ないだろう。なぜかというと、テーブルの上は「乾」でいないばかりか、「淨」でもないからである。
乾いていないとしたら、どうして「淨」(きれい)と言えるだろうか。日本人が机やテーブルを拭く時は、必ず台ふきんや雑巾を真ん中で折って折ってを繰り返す。8つまたは16の面ができるまで3回4回と折り、一回拭くごとに今度はまた反対に折り返してまた拭く・・これによってずっときれいな面を使って拭き続ける事ができるのだ。
このように一つのふきんや雑巾で何回でも拭くことができ、さらに拭いた後に自分の手が汚れるということを心配する必要もない。
台湾でビルやマンションに入っていくと、日本の清掃員のような格好よく、きれいな制服を身にまとっている、見た感じ清掃員らしき人と見えるが、使っているのはびしょぬれのモップで、それで行ったり来たり床を掃除しているのをみると、どうしてもこう思わざるを得ない。
「我々は日本の表面的なところを真似ているだけで、道理で永遠に日本には勝てないわけだ。」
びしょぬれの床では、人が行き来した後、当然立派な足跡を残していくわけで、まさにこの格言が正しいということを証明している。
「何かを行なったら必ず実績を残さなければいけない。」
お茶を出す上での所作に関して話を戻すが、まだ要求事項はあるのだろうか。
もちろんまだある。もしお客様がお茶ではなく、コーヒーを召し上がりたいとおっしゃったらどうすればいいのだろうか。
コーヒーは西洋ものであるから、コーヒーカップの花柄模様もカップ全体にぐるりとあり、表や裏という区別がない。ではどうするか?
日本人にはもう一つの決まりがあって、コーヒーカップには持つための「耳」つまり「取っ手」があるため、この「耳」をどちらに向けるべきかという問題が出てくる。皆さんにまずは推測してもらいたい。一体どちらに向ければよいのだろうか。
多くの人は私の当時の考えと同じで、通常人間は右利きだから、コーヒーカップの「耳」も向かって右を向けて置くべきだと考えるかもしれない。もしあなたが、日本の銀行に入って研修訓練を受ける前の私のように、「右を向ける」と選んだのであれば、それは残念ながら間違いである。
日本のマナーからすると、「耳」はなんと「左を向ける」のだ!もしかすると皆さんは、当時私が抱いた疑念と同じ様に、こんなことにも規範が必要なのかと思うかもしれない。しかしまさにそうなのだ。こういう細かいところにも確かに規範は必要なのだ。
日本の製品は、全世界で販売されている。これに理由が無いということはなく、必ずわけがあるのだ。「JIS(Japan Industrial Standard)」この三文字は
決して中身の伴わない形式的な「日本国家基準」ではないのだ。
さて、なぜ「左を向ける」かということだが、普通コーヒーを飲む人は、砂糖やミルクを入れるにせよ、入れないにせよ、習慣的に右手でスプーンを持ち、軽くかき混ぜるものである。
こういうわけで、カップの耳は「左を向ける」べきなのだ。そうすることで、左手で自然とカップを押さえていられるし、右手でスプーンを持ってかき混ぜるのにも都合がいい。
もし自分が客の立場であるなら、かき混ぜた後、スプーンをコーヒー皿の左に置き、そして取っ手の部分を右へと動かすことで、もって飲むのに都合がよくなる。
このように非常に細かいところに至る規定は、当然お茶汲みだけにとどまらない。もし食事をするということになれば、決まりごとはもっと多くなる。
日本人の箸の置き方に関しても、西洋料理のようなスプーンとフォークの置き方でも、または台湾のレストランのように、箸先が相手側に向いているような置き方でもなく、箸先は絶対に左側を向いて置かれている。
この理屈は、「セールス課程」の中でセールスマンに、ペンの先をお客様の方に向けてはならないと指導するのと全く同じである。先が尖って鋭いものが自分を指している時のあの感覚は決して愉快なものではない。
他にも箸置きや、スプーン、お手ふきなど、置き方にもそれぞれの決まりがある。
以前おりよく台湾のグルメ街料理のスライドを見たことがあるが、その中で紹介されていたそれぞれのお店のスプーンの置き方は、てんでんばらばらとしか言いようがなく、ただ目がちかちかして、一体どれに従えばよいのか分からないというものだった。
「掃除」の件に話が戻るが、我々はそんな簡単なこと、まさに「掃除」の名の通り、ほうきで掃けばいいのではないかと思うかもしれない。
しかし日本人が「掃除」をする時、必要とされる用具は本当に多い。我々も承知の一般のほうきに加え、ちりとり、から雑巾、ぬれ雑巾、さらには小型のへら(ガムの痕などを削るため)、ちりぼうき(ちょっとした隙間の塵をかき出すため)、小型バサミ(前述の道具でなおも解決できない判断に困る雑多な汚れ対策用)・・・・などなどである。いつでも取り出しやすいように、まさに電気工事士さながらのベルトを腰に巻くのである。
次回、日本に行く機会があれば、地下鉄や電車に乗る時、少し注意して観察してもらいたい。掃除を担当している清掃員だが、私が言っているように「完全武装」かどうかを。
なるほどアメリカ人の設計した人工衛星も、品質を確かなものにするために、最終的には日本の三菱に製造を担当してもらうようお願いするしかなかったのもうなずける。
「Made in Japan」とはすなわち、「品質保証」なのだ。日本製品が全世界で売れ行きがいいのも、当然それなりのわけがあるのだ。
1985年代、私が日本の企業、銀行などで会社員生活を始めた一ヶ月目、こういった掃き掃除や、拭き掃除、机拭きなどの訓練を受けた。さらに当時台湾ドルで7万元近くの給料をもらっていたのは、私に「接客、仕事の仕方、日常生活」の基本動作に慣れさせるための報酬となっていたわけだ。
今思い返してみると、私がもらっていた7万元に対しては、耳が赤くなるほど恥ずかしく、大変申し訳ない気持ちである。
私はいつも思う。費用を支払うべきなのは、この益するところ甚大な「新米銀行員」であって、私を雇用している企業、銀行ではないのではないかと。